大道芸人インタビュー クレイパッチ 【後編】
─クレイパッチさんのキャラクターはどのようにして作られたんですか?
大道芸を始めたばかりの頃は、真面目な格好で、無言でパントマイムやジャグリングをしていたんです。
92年にジャパンエキスポ富山という博覧会があって、それで富山に滞在して50日間出演していた時のことなんですが、ものすごく暑い日があったんですよね。
それで、涼しい衣装がほしくて商店街に洋服を買いに行ったんです。
その時買ったのが派手なショートパンツに半袖シャツ。
これがきっかけで、私のキャラクターが明るいものへ変化していったんです。
─忘れられない印象的なエピソードがあったらお聞かせください。
春、ちょうどお花見の頃の上野公園で大道芸をしていた時のことです。
お客さんの中で、一人、女性が涙を流して私の芸を観てくれていたんです。
話を聞くと、彼女はガンの末期。最後だから、と病院から外出してきていたとのことで、「死ぬ前にこんな楽しい時間がすごせてうれしい」といって涙を流してくれたことが一番印象に残っていますね。
春、上野公園にて
─海外でのエピソードはありますか?
97年、チリ、ウルグアイ、アルゼンチンに3ヶ月ひとりで大道芸をしに行った時のことです。
チリのサンティアゴに到着した後、初めて行く街だったので、大道芸ができるような静かで広い場所を探して散歩していたんです。
そこで警察が泥棒を捕まえてバンに投げ込んで棒で思いっきり叩いているところに出くわしたんです。
当時のチリはまだ民主主義とは言えない状況で、警察、とくに軍隊がものすごく強くて怖い時代だったんです。
結局セントラルプラザで大道芸をすることにして、ショーを始めたら、ものすごく人が集まったんです。
こんな大道芸は見たことがない!って大盛り上がりになっちゃって。
あまりに盛り上がりすぎたのか、しばらくすると、警察がきちゃったんです。
そう、あの時に遭遇した泥棒を殴っていた軍隊も登場して、お客さんに「帰ろ」と言い出し始めてしまって。
さすがに怖くなって「ごめんなさい私は最後までできない」ってお客さんに謝ってショーを終わらせようとしたら、お客さんたちが、「ありがとう、あなたのショーはわたしたちの人生の中で一番おもしろかった」って声をかけてくれた。
みんなにとって初めての大道芸が、私だったことがとても嬉しくて、チリでのショーは、今でも印象に残ってるショーのひとつになりました。
チリ、セントラルプラザにて
アルゼンチンではエビータのお墓があるレコレタで大道芸をやりました。
レコレタは、土曜と日曜は野毛大道芸とヨコハマ大道芸をあわせたくらいの賑やかさなんです。
アルゼンチンらしく、タンゴを踊っている人もいるんですよ。とにかくアルゼンチーナはみんな情熱的!
だから大道芸も大盛り上がり。これもとても楽しい思い出のひとつです。
路上でタンゴを踊る人
─今でも海外で大道芸をやっていますか?
5年前に家を建てて、また千葉の市原に引越して英会話教室を開校してからは、長期間出かけることができなくなったので、海外や地方で大道芸をする機会は減ってしまいました。
でも、英会話を教えるという新たな情熱も見つけましたよ。
5年前に建てたクレイパッチさん宅。
奥のポールはバンジージャンプ。
私が大道芸を始めたのは34歳の時。
当時は40歳が限界だと思ってたんです。
でも、結局20年も大道芸を続けてきてたんですよね。
正直スタミナは若い頃に比べたら減ってはいるけど、20代、30代、40代、50代と人生を経て、いろいろな経験をつんで、いろいろな人と触れ合ってきたことで、幅広いお客さんの心をつかむことができるようになったと思うんです。
顔も老けてきて、今の若い芸人みたいに「カッコいい!」とかは言われなくなっちゃったけど(笑)、ユーモアのセンスについては今が黄金時代。
20代30代じゃ人生のすべてなんてわからないもんね。
今は英会話教室で子供に英語を教えるのが楽しみなんです。
音楽もやってるし、ミュージシャンになりたいっていう目標もある。
大道芸をはじめて20年。
前は朝から夜まで大道芸でいっぱいだったけど、今は他にも情熱を持てるものができてきました。
普通の人だって、20年以上も同じことをやってたらさすがに飽きちゃうよね(笑)
人生は短いし、死ぬ前にいろんなこと試してみたいからね。
愛犬パッチ君と。
デビット・クレイパッチ。米国ミネソタ州ミネアポリスでジャグリングを始める。大学を卒業後テキサス大学でドラマ・マイム・スピーチを学び、デイズニープロなどでマイムジャグリングを演じた後ジャグリング一座を結成。1990年NHKでそのジャグリングライフが紹介されたこともある。1994年「大道芸ワールドカップin静岡」でジャパンカップグランドチャンピオンに。