大道芸人インタビュー チクリーノ 【前編】

チクリーノ。永年勤めた会社をやめ、勇躍ジャグラーを目指したが、なぜかパントマイムの世界に。翌年「チクリン」の芸名で活動開始。福山大道芸のコンテストに応募した際チクリンをチクリーノと呼ばれたがそのままエントリーし、グランプリを獲得し、その場で「チクリーノ」に改名した。翌年の九州大道芸in宗像でも優勝。 マジックやパントマイムを取り入れたブラックユーモアたっぷりのストリートパフォーマンスだ。
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大道芸人インタビュー チクリーノ 【前編】
【前篇】10年勤めた会社を退職、大道芸人に。

靴下をまるめてジャグリングをしたのがきっかけで、大道芸の世界にのめり込んでいった。

─チクリーノさんが芸の世界に入ったきっかけをお聞かせください。

小学校のとき家庭科でおじゃみ(お手玉)を作って投げたりとかはしてたんです。
10回くらいしか投げられなかったけど、ジャグリングのようなものは好きでした。

本格的にのめり込んでいったのは24歳の時。大阪で仕事をしていた時です。
ピーター・フランクルさんがテレビでジャグリングをしているのをたまたま見て、靴下をまるめて真似してみたのがきっかけです。

─靴下ですか?

もちろんピーター・フランクルさんはボールを投げてやってたんですけど、手元にボールがなかったんで(笑)
いろいろ身近なものを投げてやった中ではみかんが一番やりやすかったですね。
ビーンバッグっていう玉があるんですけど、みかんはその感覚に近いと思いました(笑)

それからも趣味でジャグリングをしてたんですけど、だんだんとハマって行くうちに大道芸人と仲良くなりたいって思ったんです。
でも、ツテもないし、そもそもどこで大道芸をやってるかもわからなくて。

当時はまだインターネットなんて珍しい時代だったんで、パソコン持ってる友達に頼んで大道芸で検索したらパントマイム教室が出てきたんです。
何か大道芸の世界へのつながりが作れるんじゃないかと思って、パントマイム教室に通うことにしたんです。

いいむろなおきさんという、パントマイムの世界では有名な方が主催する教室に通いながら、家ではジャグリング、会社では仕事もする、という生活をしばらくしていました。

いいむろさんは舞台中心の方なので大道芸はやらないのですが、教室やワークショップには芸人さんや役者さんなど身体表現のプロフェッショナルな方たちも集まってきていて、そこで色々な人と知り合うことができるようになったんです。

大阪城で大道芸をやってるっていう話を聞いたら、大阪城に見にいって芸人さんに声をかけて稽古場に連れて行ってもらったり。
つながりがだんだんと広がって行きました。

今はもうないんですが、トモノスという青年育成だか何かの施設が稽古場でした。
そこで芸人さんにジャグリングやバク転を教えてもらったりもしてましたよ。
でも結局バク転はできなかったんですけど(笑)
サリバンさんとか、Mr.アパッチさんとか、いっぱい芸人さんがそこで練習していましたよ。

28歳、一念発起して会社を辞めて大道芸人に。

でも、だんだんと仕事が忙しくなってきて、大道芸と仕事の両立ができなくなってきたんです。
それで、大道芸に懸けてみることにしました。

その頃に祖父が亡くなったんです。
お通夜に上司が来てくれたんですけど、僕が仕事を辞めないようにって両親に説得に来て。
まあ、なかなか仕事辞めて大道芸人になるっていっても理解してもらえなかったんですよね。
「息子さんが仕事を辞めるの、止めてはってください」って、上司が両親を説得しにきたんです。
1階ではお通夜、2階では親と上司と僕とで三者面談っていう(笑)

─事前にご両親には伝えてたんですか?

父には多分反対されるだろうから黙ってたんです。
こっそり辞めてなんとかしようと思ってたんですよ。

母親にはなんとなく仕事をやめて別の仕事しようと思ってるとは言ってたんですけど、「大道芸人なる」っていうのは秘密でした。

でも親父は「やらせてあげたいんですよ」って言ったんです。
びっくりしましたよ。

僕が黙ってたというので多少は「何かあるんだろうな」って感じてくれたんでしょうね。
黙ってて悪かったなあ、と思いました。

─そして、会社を辞めて大道芸一本になったんですね。

当時28歳、10年間会社を勤めたので、貯金と株とちょっとの退職金で600万くらい貯金があったんで、これでなんとかやっていけると思いました。

でも、大道芸人として稼ぐどころか、芸といえばボールジャグリングしかできなかったんですよ。

色々な芸人さんに教えてもらいながら、練習を積んで大阪城で初めての大道芸をやったんです。
とにかくガムシャラだったのがよかったんでしょうね、はじめてやったときは結構うけたんです。
それで「あ、これはいけるんちゃうかな」って思ったんですけど2回目は全くダメ、全然ウケないんですよ。
1回目の成功体験が頭にこびりついてて、狙っちゃうんですよね。狙いすぎてボロボロでしたね。

─当時のショーのスタイルはどのような感じでしたか?

パントマイムとテーブルクロス引きは初期段階からあったんです。
でも今と違って、テンションの高い明るいバージョンでした。
キューピー3分間クッキングのテーマ曲を流して、すごい速いテンポでやってました。

あとは手袋かぶったり、梯子に登って火を振り回したり。
でも結構ダラダラやっててヒドかったなあ(笑)

あるとき、いつものように梯子に登って火を振り回してたんですけど、落としまくってたんですよね。
その都度お客さんに拾ってもらってたんですけど、落としすぎるからお客さんも「もうええわ」みたいなかんじでもういい加減呆れてきて、火を落としても拾ってくれなくなっちゃったんです。
そしたら子供がぱーっと近寄ってきて、落ちたたいまつを拾ってくれたんですよ。

その後、僕の芸を見ていた他の芸人にめちゃくちゃ怒られましたね、危ないって。
それでだいぶ自信がなくなっちゃったんですよね。
とりあえず梯子はやめました(笑)

─目玉もその時生まれたんですか?

目玉は違うんです。
僕がまだデビューする前、人前でまだやったことがなかった頃に、友達の結婚式で目玉をつけてジャグリングしたんです。
結婚式だったんで、「おめでとう」っていうダジャレで(笑)

そしたら友達が結構褒めてくれたんですよね「なんか熱いものかんじたわ」って。
その時は申し訳なく言ってくれてんやろなって思ったんですけど、うれしかったですね。

─目玉は手作りなんですね。

はい。ピン球半分に切って、ドリルで穴を空けて。

─ちなみにあの目玉は何代目なんですか?

ショーの最中によく踏んづけちゃうんですよね足元みてないんで(笑)
なので目玉は作り溜めしてあります。

─今のショーのスタイルが作られたきっかけは?

広島の福山でやる大道芸のコンテストに誘ってもらったんです。
コンテストの制限時間が20分だったんですが、当時やってた僕のショーは40分くらいだったんですよね。
「削るもん削らな」とは思うんですけど、とりあえず何削っていいか思いつかない。
何かいいアイディアはないか、そう思って昔に撮影した静岡のワールドカップのビデオを見てました。
色々な芸人さんのビデオを撮ってきたんですが、その中でも特にバーバラ村田さんと加納真実さんのビデオは何回も繰り返し見てましたね。

結局コンテスト当日の朝でしたね、出来上がったのは。

3年で喰って行けなかったら芸人を辞めようと思っていた。

コンテストの前に大会の決まりで路上でやるノルマが2回あったんですけど、もうひどかったです(笑)
ボロボロで。

雨が降っていたので、屋根のあるテーブルとか椅子があるようなちょっとした住民の広場でやったんですが、お年寄りが椅子をもってきて、バリケードみたいに囲むように座ってしまったんですよね。

とりあえず新しく作った20分の短いショーをそこで初めてやったんですけど、うんともすんとも反応がなくて、「こらあかんな」って(笑)

その時のコンテストは、出演者がジャグリングをメインにした人が多かったので僕だけちょっと異色っぽかったんです(笑)
「あ、なんかひょっとしたら佳作くらいは狙えるかも」とちらっと思いましたけど、まだお年寄りの前ですべったっていう経験だけでお客さんの前でウケたことがなかったのでちょっと怖かったですね。

とりあえず全部やりきったら、まわりが面白かった、面白かった、って言ってくれて。

結局そのコンテストで優勝することができたんです。
びっくりしましたよ。

そのコンテストは東京の芸人さんが結構きていて、そこでまことさんとか、しゅうちょうさんと知り合いました。
僕の事を気に入ってもらえたみたいで「東京の仕事呼んだるわ」って声をかけてくれたんです。

会社を辞めるとき、3年で喰って行けなかったら芸人を辞めようって思ってたんです。
コンテストに出たときは、ちょうど3年目くらいの時で、貯金もなくなりかけ。
もうアルバイトしなきゃって思っていたギリギリの時でしたね。
コンテストの翌日に面接の予定だったんですよ(笑)

─コンテストがきっかけで東京に進出するようになったんですね。

当時はまだヘブンアーティストのライセンスがなかったので、埼玉のショッピングモールでイベントの仕事をしていました。
ヘブンアーティストのライセンスを取ってからは、ヘブンアーティストの仕事と、日テレアート大道芸の仕事もやりだして、東京と大阪を行き来する生活でしたね。

少しギャラが出るんですが、交通費込みのギャラなんですよ。
大阪からだと交通費も結構かさむので、深夜バスとか、高速を使わない下道で通ったりして節約していたんです。
でも2~3ヶ月くらいそういう生活をしてたんですけど、「これやったら部屋借りられるな、そしたら引っ越してしまえ」って一念発起、上京してきました。

最初は千葉の行徳に住んでいたんですが、住み始めて1ヶ月して取り壊しの通知がきたんですよ。
引っ越してすぐに日テレアート大道芸の仕事もなくなっちゃって(笑)

結局千葉に住みながらも、横浜や江ノ島の仕事ばっかりしていたので、千葉から神奈川に引っ越して今に至ります。

─ヨコハマ大道芸もその頃から出始めたんですね。

最初は山下公園ばっかりで、グランモールはとてもやれる気がしなかったですね(笑)

こっちにきて、初めてグランモールで見たのが川原彰さんだったんですが、それは衝撃的でしたよ。
たしか金曜日の夜で、人通りもそんなになかったと思うんです。

当時、大阪では大道芸っていうと、人通りの多い道で笑いとベタな基本通りのジャグリングショーが主流だったんですよ。

でもその夜の川原さんのショーは、人通りが少ない所で始めて、一人ひとり集めて最終的にあの会場を人でいっぱいにしてしまう。
そんな熱い大道芸っていうのは初めてみたんです。

それまで「チクちゃんの芸って大道芸向きじゃないね」って言われたことがあったんですけど、それまでそれがどういう意味なのか全然わからなかったんですよ。
でもグランモールの大道芸を見た時、「ああ、これが大道芸なんや」って納得しました。

今でこそ、大阪でもこういう大道芸が主流になってきましたけどね。
それについての賛否は色々ありますが、その当時はもう「なんやこれ」って、そりゃもう、びっくりしましたね。

取材・文・写真/木村 綾

#後編は11月15日公開予定です。お楽しみに!

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