大道芸人インタビュー Kaja 【前編】

川崎出身。クラウンカレッジでクラウン、ジャグリング、マイムなどを習得。 その後イギリスのサーカススクールに入学し、空中ブランコや綱渡りの技術も学び、卒業後はアイルランド・ベルギーなどのサーカスでクラウンとして出演した。現在は綱渡りを取り入れたり、傘やモップなど身近な物をつかったジャグリングで人気を博している。

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大道芸人インタビュー kaja 【前編】
【前篇】新聞広告が「kaja」誕生のきっかけだった。

新聞広告を見てなかったら、
全く違った人生になっていたかもしれないですね(笑)

─kajaさんが大道芸人としてスタートしたきっかけは?

高校卒業して、半年くらい、やりたいことが見つからなかったんです。
ちょうどその頃に、たまたま新聞にクラウンカレッジの募集広告が載っていて、それだけでは何をやるのかさっぱり想像がつかなかったんですけど、「何かおもしろそう」と
思って、応募しようと思いました。
サーカス自体を見たことが無かったので、学校へ行ってみて何をするのかがわかったくらいのレベルでした。
それまでは人前で何かしたこともまずなかったですし。
新聞広告を見てなかったら、全く違った人生になっていたかもしれないですね(笑)

第1期の募集時はお金も無くバイトして学費を貯めて第2期から入学したんです。



クラウンカレッジ時代。ここがKajaのスタート地点。

クラウンカレッジの第2期は、1990年の2月から6月までの4ヶ月間。
ジャグリング、マイム、クラウニング(クラウンの動き方)等を学び、クラウンカレッジを卒業してからは、2年くらいクラウンとして活動してました。

クラウンが活動の中心だったんですが、クラウン以外に他の道はないかなと考えてたとき、先輩が横浜で大道芸をやっていて、自分も始めてみたんです。
それが大道芸を始めたきっかけですね。

─Kajaさんのトレードマークである「矢印マーク」はこの頃に誕生したのですか?

いいえ。矢印を使い始めたのは、今から10年くらい前ですかね。

クラウンカレッジを卒業して、イベントでクラウンをやって、その後大道芸を始めてはみたんですけど、なんとなく、このままやっても行き詰るな、と思ってたんです。

ちょうどその時期に、日本でクラウンをやっていた外国人の方がいて、その人の友人がイギリスに『サーコメディア』というサーカスの学校があると紹介してくれて。

日本には専門的にサーカス芸を教えてくれる所も他になかったし、海外に一度は暮らしてみたいという気持ちもあったので、それで、自分の芸を撮影したビデオを学校に送って、入学許可をもらって。
94年~95年にイギリスへと渡ったんです。



サーコメディア時代。様々なパフォーマンススタイルを学んだ。

サーコメディアではジャグリングやパントマイムだけじゃなく、いろんな形のパフォーマンスのスタイルを学びました。

「こうすればこうなる」という具体的なものじゃなくて、アイディアや様々な要素を吸収していくという感じなんです。
技術なんて、1年くらいじゃそんなにうまくならないから。

だから、アイディアをどうつくっていくか、という考え方は勉強になったし、それは今でも自分の芸に生きています。

サーコメディアを卒業した後、日本に帰国したのですが、海外のサーカスでクラウンでやっていけたらなという思いがあったんです。

イギリスに居た頃にいろいろなサーカスフェスティバルがあることは知ってたので、ダメ元で応募をしてみたら、参加できる機会を作れたんです。
フェスティバルでは賞は取れなかったのですが、関係者が沢山見に来ていたので、ヨーロッパのサーカスでクラウンをやりたい!といろんな人に話をしていたら、親戚の人がアイルランドにサーカスを持っていると言う人が現れて。
興味があったらビデオを送ってみないかと連絡先を教えてくれたんです。

それでビデオを送って、97年に『フォセットブラザースサーカス』というアイルランドで1番古くからあるサーカス団でクラウンとしてアイルランド中を回りました。

翌年も海外の違う国でまたやってみたかったので、『ACC(アフタークラウディーカンパニー)』代表の西田さんに相談したところ、ノルウェーのサーカス『アルナルドサーカス』を紹介して頂きました。

それで、98年はノルウェー中をサーカスでまわりました。



ノルウェーのサーカス時代。ノルウェー中を回った。

ノルウェーは国土としては日本と同じくらいなのですが、人口は500万人くらいしかいないので町がものすごく点々としいて、街自体もすごく小さいので、同じ所で2回興業できないんです。

早朝移動してテントを張って夜ショウをやって、終わったらすぐ撤収。
それでまた移動するんです。

南の都市からスタートして北上するんですが、ノルウェーは夏の時期は白夜になり夜でも明るいので夜中移動して、また朝テントたてて…ってずっと移動してました。

ノルウェーの冬は寒いし雪も深いので、9月でシーズンは終わり。

その後日本に帰ってきて、横浜のグランモールで大道芸を再開しました。

僕が海外に行く前の96年ころはまだクイーンズスクエアも建っていなくて、人通りもそんなになかったんです。
でも、帰国したらすごいことになっていました。
川原さんやクレイパッチさんとか人気の芸人さんもいっぱいいたし、なにより観覧車やコスモワールドなどができて、ものすごく賑わっていて驚きました。

今はだいぶこのあたりも人通りが落ち着いてきましたけど、当時は本当にすごかったんですよ。

アイディアって、無意識にやってたことや
経験してたことから生まれるってこともあるんですよね。

─じゃあ、帰国していよいよ矢印のトレードマークが誕生したんですね。

はい。

おもしろいのは、突然生まれたんじゃなくて、昔同じようなことをやってたことがあるんですよ。
92~3年頃の写真をみたら、シガーボックスにカッティングシートで矢印の模様をくっつけてたんです、こんなころからやってたんだ、って思いました。
アイディアって、無意識にやってたことや経験してたことから生まれるってこともあるんですよね。

ただ、矢印のマークはすごい目立っていいんですが、名前を全然覚えてもらえないという欠点もあるんです。
「あ、矢印の人」って(笑)

─「Kaja」という名前の由来はなんですか?

狂言の「太郎冠者・次郎冠者」からとりました。
「太郎冠者・次郎冠者」のキャラクターが、日本の道化師なんです。

海外でやっていたとき、本名だと覚えてもらいにくいから、芸名を「Kaja」にしたんです。

ただ、ローマ字でそのまま書くと、国によっては「ja」が「ヤ」って読めちゃう。
ノルウェーだと「カヤ」って女の子の名前だし、ロシアだったら「カーチャ」とか。
でもそういう会話もしながらだとすぐに名前を覚えてもらえて。
それからずっと「Kaja」で活動をしています。



トレードマークの黄色い矢印。

苦労もすることもあるけど、その時しかできないようなことっていうのが面白い。

─Kajaさんのロープの綱渡り芸は毎回大盛り上がりですよね。

(Kajaさんの芸で、観客の方数名でロープを支え、その上でジャグリングをするという綱渡り芸があります)

最初始めた頃はほんとに大変でしたよ。だってひとりじゃ練習できないじゃないですか。
だから、最初は公園の木にロープををまきつけてその上で練習してたんですけど、木と人じゃやっぱり全然違う。
何回かやっていくうちにこうすればこういうバランスで、っていうのは感覚でわかってきました。
でも、本番でロープ持ってもらうと、人によって力の加減も全く違う。

だいぶ苦労したけど、その時しかできないようなことっていうのが面白いんですよね。

─ロープ芸で気を付けてることってありますか?

そうですね…。
毎回手伝ってもらうお客さんが違うので、お客さんを選ぶ時はインスピレーションでこの人ならいけそうだという感覚で探しています。

でも色々場所の条件もあるので、滑りやすい床の場合は革靴だと滑りやすいし、持ってもらう順番を変えるとか、臨機応変に対応しています。

あとは、自分が太らないようにする。
お客さんにロープもってもらうので、重くなれないですよね(笑)少しでも軽くしておかないと。

バランスを崩しそうになったとき、なるべく人に負担をかけないようにするには、上半身でバランスを微妙にとらないといけない。正直ここは1番気を使います。
お客さんに大変な思いをさせようと思ったらできるんですよ(笑)
でも、自分の体重以上に負担をかけちゃだめなんです。

─最後成功したときは、感動します。

ありがとうございます。
自分のロープの芸はバランスをとってナイフのジャグリングをした所で終わりじゃなく、最後に手伝ってもらったお客さんと手をつないで手を上げる。
その時に皆でやって出来たという達成感を共有できる。
そこまでが自分の芸だと思っています。

自分の様なロープをやる人がいないので客観的にどう見られているか分からないのですが、最近はBlog等で大道芸の感想を目にしたりする機会も増えました。

お父さんが綱を持ってる姿が子供の目線で撮影されている写真を見たのですが、「ああ、そういうふうに見られてるんだなあ」って。

それぞれの目線で自分の芸を見ることができるのは面白い時代ですよね。

芸が終わった後に声かけていただけたり、Blogやメールなどで感想を伝えてきてくれる声は励みになってます。

後編につづきます。

取材・文・写真/木村 綾

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