大道芸人インタビュー un-pa 【前編】

ウンパ。石川県出身。日本ではまだ数少ない回遊型パフォーマンス・ロービング(ウォーキングアクト)のスペシャリスト。
全身銀色のちょっぴり不気味な姿とはうらはらに、ユーモアと機知に富んだ演技は評価が高く国内外のフェスティバル・イベントへの出演多数。
大道芸ワールドカップin静岡では2005年のロービング部門設立から6年連続出場。東京都公認ヘブンアーティスト。
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大道芸人インタビュー un-pa 【前編】
【前篇】 怪人二十面相に憧れた、少年時代。

演劇とか現代美術の枠組みがあれば、
もしかしたら怪人二十面相ができるんじゃないか

─un-paさんが芸の道に入ったきっかけを教えてください。

いろんなことがブレンドされて今のスタイルに至るわけなんですが、たぶん一番影響があったのは、小学校の頃に読んだ江戸川乱歩の少年探偵団とか怪人二十面相の世界。
少年探偵団の活躍よりも、どちらかというと怪人二十面相が起こす犯罪にすごく惹かれてました。

─犯罪に?

犯罪に(笑)
怪人二十面相は盗賊なんですよね。
巻が進むにつれて、ギミックがどんどんおかしなことになっていくんですよ。
無意味に人を驚かせてみたり、宇宙人の噂をたててみたり、もちろん変装や被り物とか。そういう“余計でびっくりさせてやろう”というものに惹かれていったんです。

それで、怪人二十面相のトリックとかをノートにうつしてまとめてて(笑)
いつかできるんじゃないかって。そんな子供だったんです。
もちろんそれを実際やったら犯罪だし、まぁそんなことは現実的じゃないな、とは思ってましたけどね。

その後、僕が高校の頃に寺山修司さんの本に出会いました。
寺山修司さんが没後10年くらいの時だったんで、関連本がたくさん復刊してたんですけど、その中で『寺山修司の仮面画報』っていう本を図書館で見つけて、何の気なしでパラパラっと読んだんです。

そしたら、こう…とにかく見世物チックの色使い、どろっとした雰囲気で、心を掴まれたっていうか。

そのなかでも惹かれたのは『市街劇』という劇の一種。
野外で演劇をやるっていうイベントなんですけど、これは単なる“野外劇”ではなく、ある種の犯罪っぽい劇なんです。

例えば、お客さん達が、とあるアパートに住んでる若夫婦の家に行くんです。コンコンってノックしてその部屋に入って、そこで会話が繰り広げられるんだけど、実はその若夫婦はもとから仕込んでいた役者なんです。
そういうある種のドキュメンタリーというか、ドッキリみたいなものを劇だと言い張ってやってたんですよ。1970年とかに。

怪人二十面相がやってたことは犯罪だけど、『市街劇』を見て「ああ、こういうことを実際にやってる人がいるんだ」っていう衝撃をうけたんです。いや、実は『市街劇』自体も警察に捕まったりしているんですけどね(笑)

でも、例えば演劇とか現代美術のハプニングとか、そういう枠組みがあれば、もしかしたら怪人二十面相みたいなことができるんじゃないかって思ったんです。

特にその場で人を集めて何かするんじゃなくて、移動しながらリアクションを見るのが面白いなって。

丸ノ内線の中野富士見町駅にあるplan Bっていう劇場で、15年くらい前に三雲いおりさんとかふくろこうじさんとかハンガーマンとかが、『plan B コメディー・ナイト』っていうバラエティーショーをやってたんです。
僕は別ルートからその小屋の人と知り合いになって、そこに出させてもらったりしていました。

その頃は一旦踊りから離れてて一人芝居みたいなことをやってたんです。こういう一人芝居もいいんじゃないかな、と思ってたんですね。

でも、ある時に知り合いのダンスやってる子の公演を観に行ったんです。
ダンスって言葉を使わないじゃないですか。そうすると、ストーリーとかはハッキリ解らないけど、広がりがあるんですよね。ああ、言葉をつかわないで何かやれる方法はないかなって思い始めたんです。

─大道芸を始めたきっかけは?

1997年に八景島シーパラダイスの新人パフォーマーコンテストっていうのに1回だけでてるんですけど、その時だけで。その後はちょっと途切れちゃったんです。2001年に晴海トリトンスクエアっていう商業施設ができて、大道芸のラインセンスを出すっていうんで応募したのが本格的に大道芸をやりはじめるきっかけですね。

その時は、ニワトリのパントマイム的なネタがあったんですが、それだけだと5分くらいしか持たなかったので『頭がタマゴの人』っていうネタをやることにしたんです。

頭はのっぺらぼうのタマゴ、体は白いスーツの人が街中をうろうろしてて、そのうちタマゴがとれてニワトリになるっていうネタだったんですが、オーディションではあるけど、大道芸なのでまずはお客さんを集めなきゃいけないんですよ。
で、頭がタマゴの人の姿でお客さんを集めようとしたら、お客さんが「え…!」「こわい…!」とかいってみんな逃げていくんです。
寄って行くと逃げる、でも集めなきゃいけないから、集めようとするとまた逃げちゃう。
持ち時間が20分か30分だったんですけど、結局お客さん集めだけで終わっちゃって、ニワトリになれなかったんです。

「あーあ、これは失敗したなあ」って思ってたら、なぜかそれで受かっちゃって。ライセンスをもらえたんです。

1990年に大阪で花と緑の博覧会っていうのがあったんですが、その時イギリスからナチュラルシアターカンパニー(Natural Theatre Company)っていう集団が来日してたんです。僕は実際は観ていないので写真と文で知ったのですが、正装した高級な服装の紳士とかマダムが、すごい気取って会場を歩きまわるんだけど、手には木のおもちゃを連れてたり、頭が植木鉢になってたりするんですよ。
その写真をみて、これは面白い、こういうことはできないかなって思ってたんです。

その後も、意気込んでパフォーマンスをしていたんですけど、タマゴのままでニワトリにはなれなかった。結局ショーまで行けなかったんです。
僕が現れるとお客さんがみんなサーっていなくなるから、人の居る方へ、居る方へって移動していってたら、意外とこれは楽しいかもな、って思い始めたんです。特にその場で人を集めて何かするんじゃなくて、移動しながらお客さんのリアクションを見るっていうのが面白いなって。

ナチュラルシアターカンパニーのやってた事ってちょっとこういうのに近いのかな、と思ったんですよね。そこから回遊のパフォーマンスにハマっていきました。

─タマゴの芸から銀色になったのは?

タマゴは1年半~2年くらいやってたんですけど、被り物は手作りだったんです。針金で型をとって、布をぐるぐるに巻いて表面を固めてっていう作りだったんですが、造形が下手くそなんですよね。針金なんで地面においておくと曲がってきちゃうし。
見た目もハリボテ感満載でタマゴの形に見えなくて。どっちかっていうとタマゴっていうよりお米なんです。
子供が「おコメマン、おコメマン」とかって(笑)

のっぺらぼうだから穴が目のまわりにちょっとあいているくらいなので視界がわるいから、いろんなことができないんです。お客さんの反応にすぐに応えるっていうのも真正面にいる人にしかできないし、ヘルメットをもとに作ってたんで頭が重いので動きも機敏にできない。なのでもうちょっと自由なものにしたいなあ、と思って。「街中で変なことをやる」っていうことがやりたいんですけど、タマゴだと不自由だったんですよね。
それで、とりあえず全部とっぱらって腕のところにぜんまいのねじ回しだけ付けて、『ねじで動く人』みたいな感じでやることにしたんです。

その後「4日間タマゴで入ってください」っていうお仕事をもらった時、『ねじで動く人』を試してみたかったので、「ちょっと今新しいのを考えてるんです」って言ったら「ああじゃあその新しいのでいいから」っていうことで、1日目、ドーランで顔を塗ってマネキンみたいな感じにして、腕にねじをつけて『ねじで動く人』で入ったんですが、ドーランを塗ってても肌色だから、遠目にみると普通の人にしか見えないんですよ。
普通の人が、子供とじゃれてデタラメやってるしか見えなくて。そんなんだからお客さんも全然立ち止まらない。

終わったあとプロデューサーに「どうでしたかね」って聞いたら「うん…がんばんなさいね」とだけ。
あ、これはもうだめだ、終わっちゃう、と思って。

─それで『銀色の人』に。

最初塗るのは抵抗があったんですよ。安易かな、と思って。
スタチューっていって、全身白とか金色とかに塗って、お金を入れると動くっていうジャンルがあるんです。それはそれでひとつのジャンルですけど、僕はスタチューがやりたいとは思ってなかったんですね。

でも、明日の仕事まであと2時間しかない。何か変えていかないと、僕は芸人生命が終わっちゃう、後がない。

それで次の日、「ええい」って銀の絵の具をばっと塗ったら、昨日とやってることは同じなんですけど、お客さんの反応が全然違ったんです。

昨日までやってたことは、ねじなんてちっちゃくてパッと見わかんないから実際はおちゃらけたあんちゃんが街中でふざけてるようにしか見えなかったのが、今日は見た目だけで異物。そういう人がおかしなことをやってるっていうのがよかったんですよね。

銀色に塗って、初めてのお仕事を終わらして、ちょっと手応えを感じたんです。
これでなんとか機会ができたらいいなあって思ってたら、その2~3週間後に、ダンスの舞台稽古で足の小指を骨折しちゃったんです。
骨折っていっても、足の小指をギプスで固めてるので立てることは立てるんですが、やっぱり普段歩くときは松葉杖。小指をケガしてると、バランスがあんまり取れないのでゆっくりゆっくりしか歩けないんでダンスもパフォーマンスもできない状態だったんです。

その当時は建築現場でアルバイトをやってたんですが、肉体労働なのでケガしててはバイトも無理だ、どうしようって時に、お仕事の話がきたんです。

「僕いま骨折していて、ほとんど動けないんですよ」って言ったら、壁にみんなで絵を描こう、みたいなお客さん参加型の美術コーナーのようなイベントで、人間彫刻的なものがほしい、つまりは「動かないほうがいい」ということで、それならってお仕事をうけたんです。

だけど控え室から現場まで遠かったんですよ。ぐるっと回って4~50mくらいかな。

控え室をでたらもうすでに銀色の格好をしているから松葉杖をつくわけにもいかず、もうこれ以上スピードのあげ用もない!ってくらいにものすんごいゆ~っくり、ゆ~っくりと歩いてたら、ぞろぞろ僕の周りに人が集まってきちゃったんです。

銀色に塗ってるからってこともあるからなんでしょうけど、そのゆっくりな動きが面白かったんでしょうね。

日常とリズムがあまりに違いすぎると、それだけで非日常になるってことに気づいたんです。開眼したっていうか。まさしく怪我の功名ですよね。そこから今のスタイルに定着していきましたね。

僕の場合凄すぎるっていうか…まあ『ちょっとおかしいんじゃないかな、あの人』かな。

─ショーのスタイルはどんな感じで始めたのですか?

2003年に回遊型でパフォーマンスを初めて、それからは回遊ばっかりでした。

金粉ショーで有名な名古屋の大須のフェスティバルがあるんです。そこで毎年大駱駝艦(だいらくだかん)っていう舞踏の老舗の人たちが金粉ショーをやってるんですけど、4~5年前にささらほうさらっていう女の人が中心の舞踏集団も金粉ショーをやったんです。

ある日のプログラムで、一つの通りの十字路があってこっちに大駱駝艦、こっちでささらほうさらがおんなじ時間で金粉ショーをやってるんですよ。
で、僕はその時この真ん中で銀粉ショーってやってたら面白いかなって思って。

前々から、回遊じゃなく、止まってショーっぽいことができないかなって思ってたんです。なので「ちょうどいい!」って。
その時は主催の方にもなんにも言わないで、勝手にショーをやったんです。

でも歌うとか曲を使うってのはまだやってなくて、金粉ショーの真ん中に銀色の人が間にいるってだけだったんですけど。
でも、これをもうちょっとショーっぽくできるかな、って金粉ショーのパロディっぽいことをその後始めたんです。

まあ、でもそれは金粉ショーのパロディだから、名古屋の大須でしか通用しないかなって思ってたんですが、初めて“銀粉ショー”を大須でやった2週間後くらいに静岡で大道芸をやることになって。

海外のパフォーマーが3組くらい急遽これなくなって、静岡の主催者から「何かショーできませんか」って言われて。金粉ショーのパロディだけど、静岡で出来るかなあって思いながらもやってみたんですよね。
あんな内容だから最初から好き嫌いがあるし、爆発的に受け入れられるかっていうとそうじゃないじゃないですか。

でも意外とこういうのを楽しんでくれる人も皆無ではないな、他でもできるかなっていう感じはありましたね。
その後、(この芸を)許してくれそうな他のフェスティバルでも試し始めました。

─“銀粉ショー”もさることながら、熱唱芸やパフォーマンスもすごいですよね。

僕はもともと演劇をかじってたのですが、体で何かをやるっていうことに惹かれてコンテンポラリーダンスや舞踏もやっていたんです。
ただ、表現としては先鋭すぎるんですよね。だから客層がいつも同じような、限られたお客さんしかいないんです。
観に行って「よくわかんないなあ」っていう時があっても、他の人は「いやあ、あれはよかったねえ」って言ってたりすると、何がなんだかわからなくなっちゃう。

“尖鋭的すぎる”人も、美術的な文脈がわかんなくて見慣れてない人も、「よくわかんないけど面白かった」って言えるようなものができないかな、と試行錯誤していました。

それまでは全部脱いで、裸になって、河島英吾の『酒と泪と男と女』でパフォーマンスっていう流れだったんですが、これだけだとちょっと短かかったので、その前に何か足すことにしたんです。


『酒と泪と男と女』パフォーマンス

曲を使ったほうがいいかな、と思ったんですけど、僕はもともと曲自体をそんなに聞くって習慣がなくて。
流行歌なんて小学校の時くらいからわかんないんですよ。一番よく聞いてた時がテレビのベストテンですから。
僕のiPodの中身はほとんど落語か対談とかそういうのがほとんどだし(笑)

そんななので、曲はあんまり知らなかったんですが(曲を)使うんならたぶん男の人の歌がいいんじゃないかな、と。
それで何枚かCDを借りてきて曲を選んでたんです。

松崎しげるさんの「愛のメモリー」にしたのは、こういう言い方をしてしまうとアレなんですが、松崎しげるさんって、なんかちょっとこう笑いが…半笑いな感じ、しちゃいますよね?
でも実力はすごいですよ、改めて聞くと、なんて歌のうまい人なんだろうと思うんだけど、松崎しげるっていうと、なんか凄すぎて笑っちゃう。その感じがいいって思ったんです。

僕は“凄すぎて笑っちゃう”っていうのが好きなんですよね。
ちょっと話がそれますが、昔、今でいうジェット・リーが『少林寺』っていう映画に出てたんです。その後ちょっと低迷してたんですけど90年代頭に映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ(Once Upon a Time in China)』シリーズで復活したんです。それが日本で公開されたとき、「あ、子供の時に少林寺とかに出てた人が出てるんだ」って久しぶりに観に行ったら、あまりにも動きが凄すぎて会場から笑いが出てたんです(笑)
その時に、「ああ、凄すぎる、過剰なものって笑えるんだな」って思いました。


『愛のメモリー』パフォーマンス

僕は、特にパントマイムの技術があるっていうわけでもないしジャグリングみたいな技があるわけでもないし、何が出来るってわけでもない分、普通より過剰な事をやるしかないだろうなって思って。

まあ、僕の場合凄すぎるっていうか…まあ『ちょっとおかしいんじゃないかな、あの人』っていうところで(笑)

色々なことが合わさって、ヨコハマ大道芸2011はショーをやるのが怖かった。

─4月16日、17日のヨコハマ大道芸ではたくさんの方がun-paさんの芸を楽しんでいましたね。

3月11日に地震があって、原発事故が起きて、世の中大変なことになっちゃいましたよね。

“何かができる”…ってそういう言い方も気持ち悪いんですけど…世の中全部が“今、自分ができることを”っていう風潮で。それはそれで正しいと思うんです、出来ることをやるっていうのは大事なんですけど“出来ること”って胸をはるほど芸能って偉いものなのかな、って思ったりもするんです。

芸人は、お米をつくるわけでもなく、瓦礫を片付けるわけでもない。
要は世間というか社会のオコボレみたいなところで食べてるような人間ですから。
非常時が起きる前でも根本的に芸人ってそういうことなんでしょうけど、今回の事で、よりそれが顕在化したっていうか。

でも、“本当に必要じゃない”ところで芸をやったりする事で普通に生活している人たちが活性化するというのはいいなあと思うんです。
例えば単純にワザを見せるとか、ほんわか笑わせられるような人だったら、見る側の余裕が低くても、その低さにすっと入っていけると思うんですよ。

でも僕がやっているパフォーマンスって、平和な…ぼやっとした平和なところに変なものがあるから面白いっていうものなんです。
だから、今のように日常が日常でなくなってしまうと、全然成立しなくなっちゃう。見ている人の余裕度が高くないと受け入れられないような内容なんですよね。
まあ、だからといってピースフルでフレンドリーで、っていう雰囲気をつくらなきゃっていう気は毛頭ないんですが(笑)

実際この間フェスティバル(ヨコハマ大道芸2011)の時に、回遊をやるかショーをやるかですごい悩んだんですよ。
「ショーをできればやりたいんですけど」とは前もって伝えてたんですけど、最初はそういう気分じゃなかったんです。
でも場所をみたら「基本あのテラス(運河パーク)だけでやってください」っていうことで、あそこだけじゃ回遊は難しかったので、じゃあショーやろうかってことになって。

世間の自粛ムードとかを気にし過ぎるのもよくないんですけど、ちょっと怖じ気づいたところもあったんです。
今こういうご時世で、別になんの意味もないキテレツな訳のわからないことをやって、お客さんってどういうふうに思うんだろう、楽しんでもらえるのかなって。

実際あのショー自体、普段はあまりやらないんですよね。去年の秋以来やってなかったんで、タイムラグもあったんです。
だから、色々なことが合わさってこの間のヨコハマ大道芸ではショーをやるのは怖かった。

でも実際やってみたら意外とお客さんが楽しんでくれたんです。
ああ、こんな意味のない、くだらない、なんだかよくわからないことをやっても、楽しんでくれるんだ。こういう状況の中でもお客さんが楽しんでくれることで、自分に社会意義がある…とまでは思わないんですけど、自分みたいな人間でもこの世界の一部でいられるんだなあ、っていうことを思いました。

ショーをやる前まではもっと無力な感じがしてたんです。他のフェスティバルとかお仕事もなくなっちゃって、無力感というか落ち込み気味で。

でも、楽しんでもらえたっていうことで、自分の中で救われたっていうか…ちょっとこう…またおなじことの繰り返しになりますが(笑)社会っていうと大げさだけど、人々とちょっとリンクできたっていう。なんか、そういうのがうれしかったんです。

後編につづきます。

取材・文・写真/木村 綾

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