大道芸人インタビュー チョコ摩訶サーカス 【前編】

アクロバットのカム有田とチャップリン芸のたび彦がユニットを組んで展開する。 神妙な面持ちで黙々とバランス芸に取り組むカムさんと横から始終じゃまをするたびさんのでこぼこコンビが可笑しい。年齢を問わず楽しめるショーはすべてパントマイムで演じられ言葉の壁も無い。コミカルで心温まる小さなサーカスショー。大道でもホテルのパーティー、学校公演など演じる場所を問わない。
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大道芸人インタビュー チョコ摩訶サーカス 【前編】
【前篇】芸歴40年。コンビを組むまでのそれぞれのチョコ摩訶サーカス

今大道芸やってる連中の中でも、キャバレー経験があるのは俺くらいなんじゃないのかなあ。

─カム有田さんが芸の世界に入ったきっかけは?

カム 俺はねえ、もともとは新宿にあるスポーツ用品をレンタルする会社に勤めてたんだよね。その会社には“芸能部”があって、そこのトランポリンチーム所属してたの。
5人組くらいのチームだったんだけど、あちこちのキャバレーを回って仕事をしてた。
芸能部の仕事がないときは、会社の仕事をして、トランポリン貸出したり、マット貸し出したりしてたんだよね。
俺が20歳くらいの頃だから、ちょうど40年前だよ。

26歳の頃に芸能部が会社から抜けて独立したんだよね。
それで俺も会社を辞めて、トランポリンチームでキャバレーでショーをやったりしてた。

─今ではキャバレー自体あまり見かけないですよね。

カム 今この辺で大道芸やってる連中の中でも、キャバレー経験があるのは俺くらいなんじゃないのかなあ。

大道芸のお客さんっていうのは、芸だけを見に来るでしょ。
でも、キャバレーは女目当て。基本的にホステスさんしか見てないから、いくら凄いショーや素晴らしいことをやったとしても、俺たちのショーは全然見てくれないの。
それが最初辛くてね。

「このままじゃだめだな」って思って、ホステスさんに聞いたんだよね。ショーをやってる芸人の中で、誰が一番面白いですか、って。

そしたら、「あなたたちは2番目か3番目におもしろいわね」って言われたんだけど、「じゃあ一番は誰?」って聞くと、みんな口をそろえて言うのが、今をときめく綾小路きみまろ。
どこいってもあのひとがナンバーワンだったよ。

あの人は観客をいじるのがとてもうまくてね。当時はホステスさんをいじるんだけど、それが面白くてホステスさんも興味を持つわけなんだよ。

それで気づいたんだよね。
「ああ、ホステスさんに気に入ってもらえれば、自分たちのショーも観てもらえるようになるんだ」って。

それからはどこにいっても楽にウケるようになったよ。
でもそれが分かるまでには、ずいぶんかかったけどね。気づいたときはキャバレーも下火になった頃だった(笑)

カム 30歳の頃、トランポリンチームを辞めて二人組で活動するようになったんだよね。
“カム&トシ”っていう名前で、お笑いスター誕生っていうテレビ番組に出てたの。

トランポリンを使ったアクロバットなんだけど、お笑いスター誕生って“お笑い”の番組だから、アクロバットだけじゃだめなんで、トランポリンを使ってコントをやってたんだよ。
今は投げ銭集めるためだけにしか喋んないけどね(笑)

32歳か33歳の頃に、相棒がもうやめたいって言いだしたからコンビを解散して、新たに2人誘って今度は3人組の「ファンキー3」っていうチームを作ったの。
こっから3年間、35歳まで原宿の歩行者天国とかでやってたんだけど、それが俺に取っては大道芸の始まりかもしれないな。

昭和63年の10月頃に、昭和天皇の容態が悪化して、一斉にイベント関係の仕事が自粛したんだよね。
それから3ヶ月間くらいは全然仕事にならなかった。
自粛だからキャンセル料は発生しないし、仕事にならないから解散しちゃったんだよね。

それで翌年、年号が平成になってからはひとりで活動するようになったんだよね。

そうするとひとりだと結構いろんなことができちゃうんだよ。
それまでは3人でギャラを分配してたんだけど、ひとりでやれば全部自分でもらえるし。
当時はいわゆるバブルだったから、もっと早くひとりになればよかったって思ったよ(笑)

イベントも多くあったし、あの頃は断る方が多かったもんね。早い者勝ちだったんだ。
土日はほとんど毎週、平日も仕事で埋まってたよ。

夏は伊東のハトヤとかで夏の間ショーをやってたりもしてた。
ショーは夜だから、日中は暇でしょ。だから、海で泳いで毎年真っ黒だったよ。

今年は全然焼けてないから、「カムさんってそんなに白かったんですね」って言われるもん(笑)

“パントマイム”って言葉に「なんなんだろう」ってときめいたんです。

─たび彦さんが芸人になったきっかけは?

たび彦 僕はもともと日芸(日本大学藝術学部)でデザインを学んでたんです。

だけど、卒業当時オイルショックで仕事が全然なかったの。
いろいろコネつかって仕事するっていうのもなんか嫌だったから就職しないでアルバイトしてた。

その頃、僕の友達の中に演劇のパントマイムをやってる人がいて、それでなんか“パントマイム”って言葉に「なんなんだろう」ってときめいたんですよ。
パントマイム自体、詳しくは知らなかったんだけどね(笑)

それで稽古を観に行こうと思ったんだけど、石原プロってあるじゃないですか、僕、あそこに知り合いがいたんです。
その人にパントマイムを勉強したいって話をしたら、パンマイム工房のあらい汎さんを紹介してくれたんです。

汎さんは当時ママコ・ザ・マイムっていうところにいたんだけど、色々あってそこには行かなかったんです。
それで、友達がマイムをやってた並木孝雄さんの東京マイム研究所にいったの。

稽古見てたら、変なもんでさ、「これなら俺もできそう」って思ったんだよね(笑)

体を変な風に動かしたり、首だけ横に動かしたりね、顔芸したりね(笑)
こんな馬鹿な動きみたいなのって子供の頃からやってたから、ああ、俺にもできるんじゃないかな、って思って。
まあ仕事もなかったし、それがきっかけでマイムをやってみることにしたんだよね。


たび彦さんがマイムを始めた頃
たび彦 授業は1週間に3日くらいあったの。でも授業料が結構高くて。
いればいるだけお金がかかっちゃうから、早くマスターして卒業しようと思いましたよ。

1年くらいで卒業したんですが、卒業するちょっと前くらいかな、知り合いからマイムの仕事をもらったんです。
並木先生に「僕、仕事をとってきたから並木先生窓口になってください」って相談に行ったら、先生が「仕事は自分でしなさい」って言うのね。
「え、マージンも取らないの?なんていう先生だ。」って思うよね(笑)
並木先生はお金とらないの。自分でやんなさいっていうのよ。

「え~」って思ったけど、まあそう言うなら自由にやりましょう、ってそこからバンバン仕事とってきたのよ(笑)

─どういうところで働いていたんですか?

たび彦 当時は渋谷のパブレストランとか、そういうところでかなりやってましたからね。
おもしろい店?そうだね、原宿の“赤い骸骨が複葉機に乗ってマリリンモンローのところへ飛んでゆく”っていう日本一長い店の名前があったんだよ。
おもしろい名前だから、本にもよく出た店だった。
そこでマイムやってたから、僕の写真も雑誌に出たりしたんだよ。
結構ね、あちこちでやってたよ。まだあの頃の店残ってるところもあるんじゃないかなあ。

あの頃はギャラもよくて、終わったらバーンって現金で払ってくれたし、メシも食わしてくれるし飲み物も飲ませてくれる。
仕事じゃない日も「どうも~」って顔出せば、オーナーに「メシ食ったか」とかいわれて。顔みれば「食べろ食べろ」ってね。
ずいぶんお世話になったよ。ほんとにいい思いをしてね(笑)

はじめての大道芸は、パリのサンジェルマン・デ・プレだった

たび彦 26歳か27歳かのとき、バックパッカーでヨーロッパに行ったんです。
なにかあったらと思って、メイク道具と、ちょっとした衣装も持って。

日本を出て、パキスタン航空でまずローマに行って、そのあとスペインのマヨルカ島に行って、その後バレンシアに行って、バレンシアから車でピレネー山脈を抜けてパリへ行ったんです。

やっとパリについて、さあ安いホテルを探そうとするんだけど、何故かほとんど断られちゃうんですよ。
どうやらパリで大きなイベントが開催されるみたいで、お客さんでいっぱいなの。
やっと見つかった安いところでも1泊くらいしかできなくてね。しょうがないから、安い屋根裏みたいなホテルを点々としてね。

毎日宿探しするのって疲れるじゃない。それで「参ったなあ、帰りたいなあ」ってしょんぼりしてたんですよ。

あんまりフランス語もできないし、とりあえず、何か情報が欲しかったから「日本人の集まるようなところはないかなあ」って思っていたら奥さんが日本人のベトナム料理店を見つけたんだよね。
そこでたくさんの日本人と知り合ったの。

僕がパントマイムやってるっていうのを伝えたら、「じゃあ大道芸やってみようよ」ってことになったんだけど、僕それまで大道芸はやったことなかったんだよね。

でも一応メイク道具とかは持ってきてたし、やってみようかってことになって。

サンジェルマン・デ・プレっていう有名な場所に仲間たちと一緒に行ったら、大道芸のメッカだからなのか、たくさんの大道芸人がそこで芸をやってるんだよね。
場所が空くの待ってたら夜中の12時になっちゃったんだけど、でも人がいっぱいいるんだよね。

とりあえずマイムを始めてみたら、しばらくしてやってるうちになんか飛んで来るんですよね、ポコッと。
「なんか投げつけられてるんじゃないか」って見てみたら、「あら、お金だ」お金なんだよね。

チャップリンが4~5歳の時に初めてステージに立って、歌ってる間におひねりが飛んで来るのを一生懸命拾う姿がおかしくてそれが大ウケしたっていうのを読んだことがあったんだけど、まさしくそれと同じで、子供の頃のチャップリンみたいに一生懸命お金拾いながらパントマイムを30分くらいやったんですよ。

初めてだから何もわからなくて、とにかく夢中でやったよ。

ところが終わってから、他の芸人さんから「ここはひとりあたり持ち時間15分くらいで終わらないといけないんだよ」っていうのを教えられて。
今思えば、お客さんも15分くらいやったから「もう観たよ~」ってことでお金投げてくれてたのかもしれないよね。

「そっかー」って思ってたら、また芸人さんたちがいうのよ。
「なんでそこのカフェに行ってお金もらわないんだ」って。

こっちはなんにも知らないじゃない、でも教えてくれるから「わかりました」っていってカフェにいって投げ銭もらって(笑)

投げ銭が集まったから、応援しに来てくれた人たちとそのカフェに行ってテーブルの上に投げ銭をバーって広げて、「はい、これでみんなで飲んだり食ったりしよう」ってね。

これが僕に取って生まれてはじめての大道芸だよ。

たび彦 当時は、トラベラーズチェックっていうのが主流だったんだけど、トラベラーズチェックって銀行に行って換金しないといけなかったんです。
ある時、現金がなくなっちゃったから銀行に行こうと思ったら銀行やってなくて。

ホテルのおばちゃんに聞いたら「あの駅まで行ったらやってるかもしれない」って言うんで、行ってみたら開いてない。
また道行く人にいろいろ聞いて、そしたら「次の駅まで行けば開いてるかも」って言うから、お金がないから歩いて行ったんですよ。

銀行に着いたら、もうすごい人。ズラーって並んでるんですよ。みんなそこに集中しちゃってね。
しかも回転がものすごく遅いの。
あまりにも遅いんで窓口まで行って見たら、お姉ちゃんが煙草吸いながらのろのろやってるのよ。

「うわあ、こりゃいくら並んでも仕方ないぞ。わかった。」って、メイク道具を取りにホテルに帰って、ポンピドゥー・センターに行って大道芸やったの。
あの頃は「俺はここでやる」って言ったらどこでもできたんだよね。

3日間分くらいのお金が必要だったから、何ステージやったかわからないくらい一生懸命やったよ。
最初はお金もらうのも「ナントカ乞食みたいでやだなあ」とか思ってたんだけど、だんだん慣れてきちゃって、帽子もって「ほら、いれろ、いれろ、みたんだろ?みたんだろ?」みたいな感じで(笑)
それでパン買ったりコーラ買ったりして食いつないだよね。

ほんとその時は、芸は身を助けるんだなあって思ったよね。ことわざって本当なんだなあ、って(笑)
ことわざといえば「人を見たら泥棒と思え」もあったね。
荷物も目を離せばすぐ持ってかれちゃったし、投げ銭泥棒とかもいるのよ。
投げ銭もらうの手伝ってるふりして持ってっちゃうとかね(笑)

はじめての給料がディズニーランドの仕事。給料っていいよね。毎月お金が入ってくるんだから。

たび彦 パリでしばらく過ごしたんだけど、その後3ヶ月のユーレイルパスを持っていろいろヨーロッパを旅してたとき、宮崎にいる親父が危篤になっちゃたんですよ。
今だったら携帯電話があるからすぐに連絡つくけど、当時は連絡とる手段なんてなかった。
大使館には、何かあったらパリのベトナム料理店の奥さんに連絡が行くようにしてたので、結局3ヶ月旅してパリに戻ったときにそれを知ってね。

1年ヨーロッパにいるつもりで航空券を持ってたんだけど、6ヶ月目で切り上げて帰ることにしたんです。
でもチケットがないから、とりあえずロンドンに行ったらなんとかなると思って行ったら、ちょうどチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式の時でフィーバーしてたんですよ。すごいフィーバーぶりだったけど、なんとか日本に帰ってこれたんですけどね。その後1ヶ月くらいして親父が亡くなりました。

その後、東京に戻ろうかどうしようか悩んだんだけど、アパート引き払って旅に出ちゃったから住むところもないし、仕事だってない。今みたいにイベントがあったり大道芸があったりした時代じゃなかったから、マイムで食っていけるかもわからなくて。

宮崎にこのままいようかな、とも思ったんだけど、でも「やっぱりだめだ」ってリュックひとつもって上京して、友達のアパートに転がり込んで、バイトしながらアパート借りて、また東京でマイムの仕事を再開したんです。

たび彦 ある時、渋谷のパブでマイム仕事をやってたら、アメリカのディズニーランドの関係者と通訳の方が声をかけてきたの。

ディズニーランドって言われても何のことかわからなかったんだけど、とりあえずコーヒー飲みながら話きいたのよ。
そしたら1年後くらいに日本にディズニーランドができますからぜひ協力してください、一応オーディションがあるから受けにきてください、って言うじゃない。
オーディションでは、自分のマイムの作品を短めにばーっとやったんだけど、蓋をあけてみたら僕はディズニーランドでチャップリンをやることになってて。

僕、えーって驚いちゃったのね、だって今までチャップリンなんてやったことなかったし。そりゃもう、ものすごいプレッシャーですよ。

だって、本の中の架空の人物じゃないでしょ。映像にちゃんと残ってる人じゃない。
それで世界中の人が見に来るわけでしょ。もうどうしようって。

─チャップリン芸はそこから勉強したんですか?

たび彦 これはヤバイって思って、チャップリンのビデオを借りてきて、一応ひと通りみて、イメージを自分の中に取り入れてね。
チャップリンの動き、表情、リアクション。

僕が思ったのは、お客さんが知ってる本物のチャップリンと、僕が演じるチャップリンのレベルがそこそこおんなじであればいいんじゃないかって。
それ以下はまずいけど、それ以上の高いレベルでなくてもいいかな、と。
それでダメだったら途中でクビになればいいんだしって(笑)

僕のチャップリンはなかなか好評だったみたいで、まわりのみんなはずっと前からチャップリンやってる人だって思ってたみたいだよ。
2年目はギャラがボンってあがったしね。
給料っていいよね(笑)僕にとって初めての給料がディズニーだったんだけど、すっからかんになっても毎月決まった額が入ってくるってほんと幸せだよね。
いいなあ、給料って楽だなあって思ったよね(笑)

ディズニーでは、パレードがメインだったんだけど、他にクリスマスのショーと、ウェスタンランドのホーダウンっていうショーのおじいちゃんの役もやってたんですよ。

─ディズニーではどのくらい働いたんですか?

たび彦 ディズニーでは結局4年働いたんですけど、最後の方は劇場も掛け持ちしてたので、ディズニーに行けないことも増えてきてやめちゃった。

それからはおやこ劇場で、年間250ステージくらいやってましたよ。当時は子どもがすごく多かったからね。
もう大変でしたよ、日本中まわるから、移動中もステージのところで寝ちゃうんですよ。本番始まる前なのに(笑)

それもだいたい4年間くらいやって、こども劇場をやめてからはほとんどフリーでやってましたね。

─そこからずっとチャップリンなんですか?

たび彦 マイムとかチャップリンとか、自分の作品の写真を見せると、だいたいの人が「チャップリンでお願いします」っていうからチャップリンをやることが多いね。
別にチャップリンはディズニーのキャラクターじゃないからどこでやってもいいんだよ(笑)

後編につづきます。

取材・文・写真/木村 綾

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